科学哲学とは/役に立たないのか?分かりやすく!
今日は科学哲学の話をしたいと思います。
グーグルで「科学哲学」と検索すると、予測キーワードで「科学哲学 役に立たない」と出てくるので、科学哲学は本当に役に立たないのか、という点も解説します。
目次
科学哲学とは
科学哲学とは分かりやすく言うと、次の二つを考える学問です。
・科学とは何か
・科学と非科学との間には線が引けるのか、違いはあるのか
ここで言う科学というのは、物理学や化学等の自然科学の事です。
自然科学的知識とそれ以外の知識、例えば社会科学や人文科学、個々人が持っている日常の知識・知恵は、自然科学的知識とどこか異なるのか。異なるのだとしたら、それを言語化して、自然科学とそれ以外の知識との間に線を引くことができるのか、という問題です。
20世紀初頭から議論が活発になり、「線を引ける」と言っている人と、「線は引けない」と言っている人たちの両方がいます。イメージで書くと以下のようになります。左側が、科学は特別なもので、非科学とは違うと言っている人たちの科学に対するイメージで、右側が、科学と非科学の間には線は引けない、結局のところ、科学も非科学も同じようなものだ、と主張している人たちの科学に対するイメージです。
なぜこんなことを考え始めたのか/背景は
20世紀に科学哲学が議論され始めたのは、ニュートン力学や相対性理論をはじめとした物理学に代表される自然科学の成功のノウハウを、人間の他の知的活動にもいかせないかと考えたからでした。
ニュートン力学などによって物理学は進化し、高い精度で自然現象の予測が可能になり、技術が発展し、社会を豊かにしました。(と少なくとも当時は考えられていました。)その自然科学はなぜそんなにも成功できたのか、その「なぜ成功できたのか」という成功要因を解き明かすことで、社会科学や人文科学、そのほか一般の人間の知識を進化させられないか、と思ったわけです。
要は、自然科学をベンチマークに、知的活動のノウハウを研究しようとしたということです。
科学哲学の代表的議論の紹介
そろそろ本題に入ります。
今回は、科学哲学の議論として最も有名な二人の哲学者、イギリスのカール・ポパー(1902-1994)と、アメリカのトーマス・クーン(1922-1996)の議論を紹介したいと思います。
この二人は年こそ離れていましたが、同じ科学哲学の分野で研究していたこともあって、論争を繰り広げ、その論争の内容が本としても残っています。
今回は、二人の議論の内容に加えて、二人の主張の違いについても触れてみたいと思います。
カール・ポパー
カール・ポパーは、科学と非科学との違いは、「反証可能性」にあると主張した哲学者です。
反証可能性というのは、自分が考えた理論に対する反証・反論が出てきた時、例えば実験などをして、自分の考えた理論と矛盾する結果が出てきた時に、その理論を捨て去るだけの素直さ、潔さがあるかどうかを意味します。理論を捨て去れることを「反証可能性がある」と言い、反証例が出てきても理論を捨て去れないこと、もしくはそもそも反証するのが困難なことを「反証可能性が無い」と言います。
ポパーが指摘したのは、科学にはこの反証可能性があるが、非科学にはない、というものでした。
例えば、ニュートン力学は、万有引力の法則などすべてが厳密な数式で定義されており、その数式と異なる実験結果が出てきたら、ニュートン力学は正しくないことが明らかです。例えば、奇跡が起き、地球上の人間が浮くような事例があったら、それはニュートン力学に対する反証になります。つまり、ニュートン力学は反証可能であり、科学だということです。
一方で、例えば「幽霊は存在する」という考えは、いくら頑張っても、反証はできません。幽霊が存在することの証明ができないのと同じように、幽霊が存在しないことの証明もできないからです。つまり、この「幽霊は存在する」という考えは、反証可能ではなく、科学ではないということになります。
このように、反証可能性という観点から科学と非科学を分けようとしたのが、カール・ポパーでした。
トーマス・クーン
続いて、トーマス・クーンについてです。
トーマス・クーンは、パラダイム論で有名です。
パラダイム論のあらましは以下になります。
- 自然科学は、他の知的分野、例えば社会科学や人文科学などと異なり、基本的なことで論争にならない。例えば、経済学では、資本主義vs共産主義のような基本的な部分で対立構造があるが、物理学の分野で、ニュートン力学や相対性理論に異を唱える対立勢力は存在しない
- 自然科学の分野では、ニュートン力学や相対性理論のような、その分野の研究者全員から支持されている理論的枠組みがある。(この理論的枠組みのことをパラダイムと呼ぶ)
- 研究者たちは、このパラダイムを理論的前提として、研究を進めていく
- しかし、研究を進めていくと、いずれはこのパラダイムとは矛盾する実験結果が出てくる。研究を続けていくと、この矛盾する実験結果はたくさん集まってくる
- たくさん集まったこの矛盾する実験結果を、うまく説明できる新しい理論を考える
- 新しい理論が、元のパラダイムよりも魅力的になると、研究者たちは元のパラダイムを捨て、新しい理論を前提に研究をするようになる。結果として、この新しい理論がパラダイムとなる(パラダイムが入れ替わる=科学革命が起きる)
トーマス・クーンの主著は「科学革命の構造」というもので、まさにここに書いた科学革命に至る一連の流れを論じたものです。
トーマス・クーンは、このパラダイムと科学革命の存在こそが、科学の特徴であると主張したわけです。
ポパーとクーンの主張の違い
先ほども書いたように、ポパーとクーンは何度か会って議論しており、その議論内容が本としても残っています。
今回は、そういった書籍も参照しつつ、
の二つの観点から二人の主張の違いに触れてみたいと思います。
実行可能性
ポパーとクーンの議論をまとめた『批判と知識の成長』という書籍があります。(批判と知識の成長 | 森 博, イムレ・ラカトシュ, アラン・マスグレーヴ |本 | 通販 | Amazon)
この中で指摘されているのは、ポパーとクーンの言っていることは似ているが、ポパーは規律的な議論をしている(科学においては反証を目指すべきであると主張している)のに対して、クーンは記述的な議論をしている(科学においては、パラダイムに沿って研究が進み、反証例が積み重なると科学革命が起きると主張している)ということです。つまり、ポパーは、どうすべきかの議論をしているのに対して、クーンは、実際のところどうなっているかの議論をしているということです。
このことからわかるように、より実行可能性が高いのは、クーンのパラダイム論の考え方です。
ポパーの考えに沿って科学をしようとすると、自分で理論を考え、すぐにその反証を探し、また新たな理論を考え、、、という作業の繰り返しになります。つまり、自己否定する作業の繰り返しになりますし、場合によっては、よりどころとなる理論が一つもないという状況さえあり得てしまいます。
一方で、クーンの考えに沿えば、とりあえずは自分の考えた理論の正しさを実験などによって確かめていき、もし反証例が出て、かつそれが溜まってきたら、新しい理論を作ればよいということになります。
後者の方が、実行可能性が高いというのは、想像がつくと思います。
ホーリズム
続いてはホーリズムです。
ポパーの考えは、理論に対して、一つでも反証があれば、すぐにその理論は捨てるべきである、というものです。反証一つでも意味を持つということです。
一方で、クーンの考えは、反証がたくさん溜まったら、次の理論を考え、その理論へと移行していくというものです。つまり、反証はいくつか必要で、反証一つ一つを重視するものではありません。
このように、一つ一つの要素を重視するのか、理論全体で見たときの整合性を重視するのかが、ポパーとクーンは違います。後者のクーンのような考えを、哲学の世界ではホーリズムと呼ぶのです。つまり、部分部分よりも全体を重視するという考えです。
個人的には、人間の認識はどちらかというと、ホーリズムに近いのではないかと思いますし、だからこそ、前述の話とも関連しますが、クーンの考えの方が実行に移しやすいように思えるのでしょう。
(ホーリズムについては、こちらの書籍を参照しました:クワイン (平凡社ライブラリー683) | 丹治 信春 | 哲学・思想 | Kindleストア | Amazon)
論点の移り変わり
以上見てきたように、科学哲学とは、科学と非科学との間に線は引けるのか、を問うたものでした。そしてポパーとクーンを中心として、線は引けると主張されたわけですが、実は二人の主張には様々な欠陥も見つかっています。なので、今でも、「線は引ける」派と「線は引けない」派との間で、決着はついていない状況です。
そして、決着がつかない中、科学技術が発展し、社会への浸透の度合いが高まるにつれて、この「線は引けるか」問題は、政治の問題にもなってきています。
ここでは、科学技術が社会に浸透するにつれて新たに出てきた以下の二つの論点を紹介したいと思います。
- 科学的知識の政治的地位の問題
- 科学と政治のスピードの問題
科学的知識の政治的地位の問題
科学と非科学とは異なるという立場の人たちからすれば、科学者の意見は政治的に非科学者の意見よりも重要なはずです。
一方で、科学と非科学との間に線は引けないと考える人たちからすれば、科学者の意見だけでなく、一般市民の話も聞くべきということになります。
つまり、前者はプラトンの哲人政治に近い考え、後者は民主主義に近い考えを持っているわけです。(哲人政治・民主政治については、こちらのブログで解説しています:民主主義とは何か?問題点や課題は?わかりやすく! - はりねずみ教)
プラトン以降ずっと繰り返されてきた哲人政治や民主政治と言った政治体制の是非を問う議論が、科学哲学とも関係しているわけです。
(この科学者の政治的地位についての議論は、こちらの書籍が詳しいです:Third Wave of Science Studies, The: Studies of Expertise and Experience (Cardiff University, School of Social Sciences, Working Papers S.): Collins, Harry, Evans, Robert: 9781872330662: Amazon.com: Books)
科学と政治のスピードの問題
続いて、科学と政治のスピードの問題です。
まず、科学というのは、過去のクラシックな科学と、現在実行中の科学とがあります。大切なのは、学校(小学校~高校をイメージしています)で習うのは前者のクラシック科学だけだということです。最近の科学など、少なくとも高校までは教えてもらえないことがほとんどです。
これの何が問題かというと、科学に対する誤ったイメージが、定着してしまうことです。クラシックな科学は、少なくとも数十年、ものによっては何世紀も前の成果で、十分に検証されたものだけが教科書に載っています。
一方で、現在実行中の科学は、だいたいどれも仮説にすぎず、その仮説を検証している段階です。つまり、結論がまだ出ていないのです。
政治の世界は、意思決定が必要です。意思決定には、しばしば科学的知識が必要となります。しかし、上述したように、現在実行中の科学はすぐに結論を出せるわけではありません。「科学は、政治が求めるスピードで答えを出せるとは限らない」のです。(出所:法廷に立つ科学: 「法と科学」入門 | シーラ ジャサノフ, Jasanoff,Sheila, 千原, 渡辺, 貴之, 吉良 |本 | 通販 | Amazon)
科学は、政治のためにスピーディーに答えを出せるとは限りません。その状況下でも、社会の意見をまとめて、意思決定していくのが、政治の役割だということです。
(クラシック科学と現在の科学との区分については、こちらの書籍を参照しています:科学が作られているとき―人類学的考察 | ブルーノ ラトゥール, Latour,Bruno, 勝, 川崎, 紀代志, 高田 |本 | 通販 | Amazon)
科学哲学は役に立たないのか?
ここまで科学哲学の内容を見てきたら分かると思うのですが、自分は科学哲学は役に立つと思います。科学技術の社会への浸透度合いが高まっていく現代において、科学の性質を知ることは重要だからです。
例えば、
- このFake Newsの時代に、科学的であるか否かを見極める重要性は高まっています。また、個々人を見るときも、反論を聞き入れる余裕があるか(反証可能性があるか)は、人の信頼度を図るうえで指標となるでしょう
- 政治の世界に目を向ければ、科学の性質を知ることで、政治的意思決定に誰が参加すべきか、科学技術と関連する政治的意思決定をするときに注意すべきことは何かが分かります
日本では3.11以降、特に原発に絡む意思決定が多く求められていますが、こういった科学技術に関連する意思決定をする際には、先ほど書いたように、「科学に答えが出せるとは限らない」という意識を持つことが重要です。科学に言えるのは「今後~~年で~~のようなリスクが~~%ある」ということだけで、「原発を再稼働すべき/すべきではない」という問題に対する答えは科学には出せません。国民・政治が意思決定しないといけないのです。
まとめ
現代社会は、科学技術の社会への浸透度合いが高まっていく時代です。その時代に、「科学とは何か」という問題に迫ることで、科学技術に関連する意思決定の精度を上げることができます。
科学哲学とは、役に立つものなのです。